麻生の足跡

筑豊石炭鉱業組合

麻生の足跡−地域とともに−
筑豊石炭鉱業組合
 日本最大の産炭地として、明治から大正にかけては国内の石炭生産量の50%を担っていた筑豊炭田。石炭の採掘がはじめられた江戸末期には、黒田氏の治める福岡藩も小笠原氏の豊前藩も、「仕組法」という一種の統制経済を敷いて石炭の採掘、販売を規制していました。
 ところが、明治2(1869)年に鉱山開放令が発布され、「誰でも石炭を掘ってよい」、「誰でも石炭を売ってよい」となると、「石炭で儲けよう」と大小さまざまな山師が筑豊の炭田に殺到し、乱掘をはじめます。日本にとって、筑豊にとって、大切な資源を守らなければならない――福岡県は、明治18(1885)年に遠賀川筋の筑前から豊前にわたる5つの郡(遠賀・鞍手・嘉麻・穂波・田川)に、組合をつくり統制のある石炭採掘をするよう行政指導を行います。そして同年11月、その5郡の組合が直方に大同団結し、「筑前国豊前国石炭坑業人組合」が誕生したのです。

「筑前国豊前国石炭坑業人組合」は、同業者による組合として日本で最初に発足した団体であり、また日本で最大の団体でもありました。いまでは馴染みの深い「筑豊」という呼称も、この組合ができたころから広まったと言われています。そして、明治26(1893)年、組合員の範囲に隣の郡が加わり、名称も「筑豊石炭鉱業組合」と改めました。

 筑豊御三家と呼ばれた麻生太吉、貝島太助、安川敬一郎をはじめとする、地場資本の炭鉱主たちが集まった「筑豊石炭鉱業組合」は、石炭採掘・販売の統制を図るだけでなく、地域社会発展のための活動も積極的に行っていきます。
 明治39(1906)年にはじまった遠賀川の改修工事にあたっては、組合から25万円(現在の貨幣価値に換算すると約2500万円)を寄附。大正6(1917)年には、炭鉱で働く技術者を養成するため、組合の直営で「筑豊鉱山学校」を設立します。筑豊鉱山学校は、幾度かの名称の変更を経て福岡県立筑豊工業高校となり、平成15(2003)年に開校した福岡県立鞍手竜徳高等学校に統合されて、平成17(2005)年に閉校となるまで、地域の文教の一助となっていました。

 麻生太吉も、この筑豊石炭鉱業組合の組合員としてさまざまな活動に参画。数期にわたって総長も務め、地域の発展に力を注ぎました。
 なお、麻生太吉、貝島太助、安川敬一郎らが会合を行っていた「筑豊石炭鉱業組合直方会議所」は、現在、直方市石炭記念館の本館として一般に公開されています。明治43(1910)年に竣工した木造2階建ての洋風建築は、入口のアーチ、室内の天井や階段の手すりなど往時の姿がそのまま残され、館内では、筑豊炭田の歴史、炭鉱の安全のための取り組みなどについての展示が行われています。

※写真資料は直方市石炭記念館所蔵
直方市石炭記念館
住所:福岡県直方市大字直方692-4
http://yumenity.jp/sekitan/