明治43(1910)年に嘉穂電灯を興した太吉は、以降も積極的に電気事業に参画していきます。明治44(1911)年には、九州水力電気の設立に参画。日本最大の重工業地帯であった北九州地区を中心に電気事業を推し進めていくことになったのです。
当時の九州北部では、発展を続ける鉄鋼業や炭鉱業などによる電力需要の増加に伴って、複数の電力会社がしのぎを削っている状態でした。九州電灯鉄道、九州電気軌道、そして九州水力電気が、電力供給許可区域などが重複するなかで無駄な競争を続けていたのです。電気事業に「公共性が必要」と考えていた太吉は、「同じ地域で同業種の2社が対立を続けるのは無駄な労力とお金を使うだけ。互いによく話し合って、合併するほうがいい」と、九州電灯鉄道と合併に向けた交渉を進めます。ところが、合併比率の調整が難航しているあいだに、九州電灯鉄道は関西水力と合併し、東邦電力となってしまいます。
さすがの太吉も憤りを見せましたが、すぐに方針を転換。大正元(1912)年に、博多電気軌道との合併を実現させました。水力による発電と電力の卸売りを行っていた九州水力電気は、電車の運行や電力の小売に事業を拡大することになったのです。
大正2(1913)年。太吉は、九州水力電気の取締役となり、ふたつの大きな事業を進めていきます。熊本県の阿蘇を流れる杖立川に水力発電所に建設すること、宮崎県の五ヶ瀬川を他社との協力のうちに開発することでした。
とくに五ヶ瀬川の開発については「産業の振興にとっても、国の経済にとっても、無駄な利権争いを避けることが必須である」と太吉は考えていました。そして「水利権をめぐって競い合っている電気化学工業、三菱鉱業、東邦電力、九州水力発電が出資しあって、新会社で進めるべきだ」と、時の逓信大臣、野田卯太郎氏を説得します。
太吉の願いどおり、4社等分の出資による九州送電が設立されたのは、大正10(1921)年4月のことでした。九州一円への送電販売のみならず、各地の水利権を継承して設備を整え発電も手がけることになり、昭和2(1927)年から五ヶ瀬川に高千穂発電所の建設をはじめると急速に事業が進展。九州の電力業界を掌握するまでに成長したのです。
昭和3(1928)年になると、太吉は九州水力電気の社長に就任。大正12(1923)年以降続いていた世界的な不況の下にあって、九州においても電力の需要が低下していたため、社内経費の思い切った削減と、電力界の統合を計っていきました。
昭和5(1930)年に九州電気軌道の経営権を掌握したときには、直後に前社長が不正手形を乱発していたことが発覚。膨大な手形の決済を迫られ窮地に立たされました。しかし、太吉は井上準之助蔵相に融資の相談を持ちかけて日本興業銀行から特別融資を受けると、不正を表沙汰にすることなく完済します。あわせて人員整理、株式の無配当化、社債の発行、役員はじめ高給社員の減棒、経費節減なども行い、再建を果たしたのです。
資料提供/九州電力