麻生の足跡

嘉穂銀行

麻生の足跡−地域とともに−
嘉穂銀行(前編)
 銀行をはじめとする金融機関は、現代の経済活動にはなくてはならないシステムのひとつです。企業の資金調達はもとより、給与の支払い、個人が家を買うときのローン、銀行振り込みなども大いに利用されています。  日本初の銀行は、明治5(1872)年に公布された国立銀行条例によって、翌明治6(1873)年に誕生した国立第一銀行です。その後も全国各地に国立銀行が開設されていき、九州でも、明治10(1877)年の福岡の国立第十七銀行を皮切りに、2年間で17行もの国立銀行が営業をスタートしています。

 銀行の黎明期、筑豊には長らく銀行のない状態が続いていました。明治20年代に入ると、筑豊の炭鉱開発は本格化。貝島、安川、麻生などの地元資本のみならず、三井、三菱、住友、古河といった中央資本の進出も目立つようになってきます。産出する石炭の量も日を追って増え、取引の金額も大きくなっていきました。
 しかし、銀行のない筑豊では、炭鉱の経営も住民の資産形成も現金で行わざるを得ません。最高額の紙幣が1円札だった時代にもかかわらず、炭鉱では、数万円、ときに数十万円にものぼる取引が行われることもあり、大きな取引が行われるたびに門司の銀行まで出向いて、紙幣を満載にした荷車を引いて戻らなければなりませんでした。明治26(1893)年に筑豊興行鉄道が開通して以降、紙幣の輸送はいくぶん楽になったとはいえ、多額の現金を持ち運ぶリスクと労力がなくなるわけではありません。地域経済の発展と利便性の向上のためには、銀行の設立が急務となりました。

 そして、明治29(1896)年。待ち望んだ銀行が、飯塚の地に設立されました。炭鉱経営者ら24人が発起人となった「嘉穂銀行」です。地域の産業開発を願うと同時に、筑後方面より進出してきた金融業者から高利の貸し付けを受け、利払いに苦しむ住民がいることにも心を痛めていた麻生太吉が、「なんとしても、地元に銀行をつくりたい」と地元の有力者に声をかけて開業に漕ぎつけたのです。