麻生の足跡

嘉穂銀行

麻生の足跡−地域とともに−
嘉穂銀行(後編)
 明治29(1896)年、筑豊の経済を支える金融機関として誕生した嘉穂銀行。初代頭取に就任したのは、地元の資本家を取りまとめ、設立に向けて奔走した麻生太吉でした。

 嘉穂銀行が銀行業務と貯蓄業務を兼ねて営業をスタートしたとき、太吉が固く誓ったことがありました。「嘉穂銀行を、けして私的なものにしない」ということです。当時の私立銀行では、出資をした資本家が自らの事業の資金を調達するために利用することが多々ありました。健全な貸付であれば問題ないのですが、審査も条件も甘く、銀行の経営を圧迫して問題となるケースも少なくなかったのです。
 太吉は、自身の事業に有利な条件で貸付を行うなどとは端から考えていませんでしたが、「いかなるトラブルも起こさないために、嘉穂銀行からは借り入れを行わない」という堅固なスタンスを取りました。あくまでも筑豊の産業の発展と住民の生活の利便性を向上させるための機関であると、思い定めていたのです。

 嘉穂銀行は大隈や小竹などに支店網を広げて少しずつ事業を拡大していきました。堅実な経営を続けるなかでも、太吉の「自分の利益のための銀行ではない」という意識が変わることはありませんでした。
 太吉の姿勢がもっとも顕著にあらわれているのは、昭和2(1927)年に起こった金融恐慌の際のエピソードでしょう。
 全国各地、ほとんどの銀行で取り付け騒ぎが生じ、窓口には預金の引き出しを求める客が押し寄せていました。支払い停止に追い込まれる銀行が相次ぐなか、太吉は「一銭一厘たりとも預金者に迷惑をかけてはならぬ」と、策を講じます。経営状態を仔細に知らせると同時に「万一のときには私の全財産を投げ打ってでも預金を保護する覚悟がある」という内容のビラを印刷し、預金者全員に配布したのです。
 このビラによって預金者の不安は一掃され、多少の取り付けはあったものの、最終的には預金が増加。事なきを得たのです。

 昭和8(1933)年、創業以来38年にわたって頭取を務めた麻生太吉が逝去した後は、伊藤伝右衛門が2代目頭取に就任。昭和20(1945)年にとられた「一県一行主義」の国策によって、十七銀行、筑邦銀行、福岡貯蓄銀行と合併するまで、筑豊を支える金融機関としての役割をまっとうしました。合併で発足した現在の福岡銀行は、九州最大の地方銀行としていまも地域経済を支え続けています。