麻生の足跡

飯塚商工会議所

麻生の足跡−地域とともに−
飯塚商工会議所
 全国各地に設立されている「商工会議所」は、地域経済の振興を目的とした会員組織です。飯塚商工会議所の歴史も古く、平成20(2008)年には創立100周年を迎えています。
 飯塚商工会議所の前身「飯塚商工会」が発足したのは、明治41(1908)年12月。石炭の増産を受けて人口が増え、町の規模も大きくなっていった時期でした。商工業者が相互に協力して便宜を図りながらさらなる発展を目指していこう、という機運が高まり、商工会が誕生したのです。

 昭和2(1927)年には、各地の商工会議所に部会や委員会等を設置して組織の強化をはかること、中央組織となる「日本商工会議所」を設置することなどを定めた「商工会議所法」が制定されます。筑豊でも、商工会組織のままではできないことが多く、商工会議所の設置を望む声が高くなっていきます。しかし、法で定められた商工会議所は、町村では組織できません。商工会の面々が中心となって、市制への移行を推進していきました。
 そして、昭和7(1932)年、念願の市制導入を受けて翌昭和8(1933)年に飯塚商工会議所に組織を改編。初代会頭には、太吉の娘婿であり、麻生商店の取締役でもあった麻生義之介が就任しました。

 商工会議所は、運営がはじまると同時に積極的に事業を展開していきます。商店会でのサービスデーの開催、速達郵便の取り扱い開始、防空展覧会の後援、観光案内小冊子の発行、簿記やタイプの検定試験実施など、多岐にわたる活動で地域を盛りたてました。
 第二次世界大戦中は、生活物資が配給制になるなど地域経済も中央政府の統治下に置かれるようになり、ついには昭和18(1943)年9月、飯塚商工会議所も解散。福岡県商工経済会の一支部となりましたが、終戦後の昭和21(1946)年に再発足します。
 再出発に際しては前副会頭の金本三郎氏を中心に設立準備委員会が結成され、そこで麻生鉱業の社長麻生太賀吉が会頭に選出されました。太賀吉は、昭和55(1980)年に亡くなるまで、34年もの長きにわたって会頭を務めることになります。在任中は、自衛隊駐屯地の誘致、近畿大学や九州工業大学の誘致、鉄道・道路の交通網の整備などを行い、石炭不況を乗り越えるべく全力で取り組んだほか、戦時中に中止されていた飯塚花火大会を復活させたり、音楽祭を催したり、文化事業にも力を入れていきました。終戦後、会議所がたいへんな財政難に苦しんでいた時期には、太賀吉が職員の給与を黙って立て替えていたこともあったそう。

 太賀吉の後任として副会頭だった花村樹昌氏が10年間会頭を務められたあと、平成2(1990)年には4代目の会頭に麻生太郎が就任。平成9(1997)年からは、麻生泰が5代目となる現会頭の任に就いています。
 飯塚商工会議所では、企業の誘致、「飯塚国際車いすテニス大会」や「筑前いいづか雛(ひいな)のまつり」の開催、街路の整備、伊藤伝右衛門邸の公開、嘉穂劇場の復旧など、筑豊飯塚の発展を支え続けているのです。

※写真資料は「飯塚商工会議所 創立100年記念史」より
飯塚商工会議所
住所:福岡県飯塚市吉原町6-12
電話:0948-22-1007
http://www.iizuka-cci.org/